2013年4月2日火曜日

新宿西口・ばんやき「ぼるが」に行ってきた。

一昨日、どーにも文化酒場の喉が乾いて…一人新宿に繰り出した。

新宿西口「ばんやき ぼるが」。
知る人ぞ知る名店だ…。

私がこの店に入ったのは二十歳。亡父に紹介されてこの古き扉を開けたのだが、亡父は、それから溯る事二十年前に此処に通っていた。

実は、この「ぼるが」の文字は、画家の故髙橋忠弥氏の作品だ。
何度も紹介しているので、ご存知の方は多いが故髙橋忠弥氏は、亡父の師であり、私も孫のように可愛がって頂いた。
我が本名企劃事務所の名刺のロゴマークも故髙橋忠弥先生の作品だ。

亡父は故髙橋忠弥先生とこのボルガで良く酒を飲んだと言う。絵画の師であったのだが亡父が言う…「絵を教えてもらった事はないかったが、絵画の技術以上の文化と芸術論と人間の本質ついては誰よりも学んだ…」と。

「ぼるが」は今では優れた二代目が継がれているが、今でも私は時折その古き扉を開ける。混んでいる店だから、挨拶は帰り際にチラリとだけするが、故髙橋忠弥先生と亡父のお陰か…いつも二代目は温かい笑みで接して下さるのだ。

昨年、我が本社、亡父のアトリエを掃除していたら、ぼるがの包装紙が出てきた。故髙橋忠弥先生の作品だ。その優れた包装紙を見つめていたら…ぼるがに届けなければ、と思った。そして、それ以上痛まぬようにファイルにはさみ、二代目にお届けした。

たいそう喜んで下さり…またしても満面の笑みで見送って下さった。

私は三十五年通っている店が多い。現在五十五歳になりかけだから、二十歳からの酒場人生になる。ちょっとフライングしている店も多々あるのだが…うはははっ。
亡父に紹介してもらった店は、今も私の酒場人生の背骨に強く焼き付いているのだ。

しかし、本物の酒場は「敷居が高い」。
私は三十五年かけても未だ常連席に座れない若造だ。

某老舗酒場で、店の暖簾をくぐり…たまたま常連席の一等席しか空いてなかった時がある。躊躇して出直すか…と…その時、女将が手招きして「こっちへおいで…」と一等席を指差し、私を呼んでくれた。とても嬉しかったが、緊張で心臓が爆発しそうだった。

それが、老舗、それが店と客との「礼儀」ある姿なのだ。

「三十数年で、やっとこの席に座れました…」と女将に告げると、優しく微笑んでくれたんだ。後は何も言わない…。

帰り際女将は私の前に立ち「お母様に宜しくお伝えください…」と言う。涙が溢れてきた…。

老舗は、老舗たる所以がある。だから私は明日も通うのだ…。

新宿「ぼるが」…我が人生で…後何回通えるのだろうか。
後…何回…イイヨルを過ごせるのだろうか…。







長い間大変にご無沙汰しておりました。

本名企劃事務所のホームページ、大変に長い間更新をせずに放置をしてしまっていた。

記録を見ると、2011年10月9日が最後の更新となっている。実に17ヶ月もの間、このトップページはそのままになっていた事になる。

しかし、ホームページはそのままだったが、新しいSNSの世界「facebook」を活用する事で、情報発信力は大きくなり、全国に、いや全世界に沢山の仲間たちが生まれたのだ。ありがたい時代ににったものだ。

言い訳になるが、その17ヶ月もの間、私自身にも沢山の変化があったのだ。
大変な大事故を起こしてしまって、昨年は約半年以上身動きが取れない生活を強いられていた。誰にもご心配をおかけしたくなかったので、表面的には優雅に、言わば「シンクロナイズドスイミング」状態を装っていた。

動かせない身体、必要最低限の生活を維持するために、外出は数日に一度程度で、ひたすら復帰出来る日々を待ち望んでいたのだ。

お陰さまで100%とまでは行かないが、何とか八割程度の充電となった様子で、新しき年は今迄の低迷期を取り戻すが如く精力的に活動を再開している。

また今後ホームページの、このトップページもfacebookと連動して活性化して行きたい。

まずは、長らくご無沙汰してしまったお詫びと、何とか「生きている」という生存確認メッセージをお届けして、本日はこれまで…。

沢山のお問い合わせ等に…心から深謝!!


写真は、本名企劃事務所本社前の桜。今年も美しき時間が静かに過ぎて行きました…。







  

2011年10月9日日曜日

都会の夕焼けを見て考えた…


昨日、夕日が落ちた後の都会はなかなかエキゾチックだった。

私の場合、facebookは事務所にいる間はほぼ常時ログイン状態となっている。メインコンピュータの27インチiMacで通常の仕事を動かし、すぐ側にMacAirを開いている。

我が事務所には現在テレビはないのだが、イヤ正確に言うと砂嵐を表示するアナログテレビはある。あのデジタル切り替えの日に、全ての局がアナログにサヨナラする瞬間を目の当たりにしてから、私のテレビは「使わざる骨董品」となった。そして、私が唯一見るテレビはMacAirのUSBに差し込んだデジタルテレビチュナーだけ。で、ニュースの時間だけテレビを確認するが、それ以外は常にfacebookが立ち上がっている。
事務所を出ると、iphone、又はMacAir、そしてipadにて様々なメールや情報を取得するのだが、実はかなり多くの時間をfacebookに占領されている事はいなめない

夕日を眺めながらふっと思った。自分は何故facebookをやっているのか…と。当然始めた理由は決定的だが、自分の時間を費やしてでも今このSNSを続けているかと言うと、その先の未来が見える予感がしているからだ。

もしも、このfacebookが遊びだけなら、とうの昔に私はもっと有効な時間を使っているし、もっとダイニングバー海で楽しい酒盛りをしているだろう。
夕方、薄い紫にそまった都会の風景を眺めていると、facebookに書き込む一つ一つの言葉が、その先の見えない人に繋がり、そしてさらに先の世界とリンクして行く様をヒシヒシと感じるのだ

先日facebook上で、京都の伊藤さんと立ち上げたスティーブン・ジョブズの追悼サイトRememberingSteveJobsは、たった二日で「いいね!」を沢山いただいた。それは私にとって大きな前進となる。コレから始まる大きな復興の「ムーブメントという未来」に、一筋の大きな道筋を作ってくれた。

ある人が私にそっと耳打ちをした。「海外の亡くなった方を忍ぶ時間が本名さんあるのですか?もっとあなたが動くべき現実は違う所にあるのではないですか?」と。
本当に大切な忠告であるし、それは誰よりも私自身が知っている…と自負している。しかし、私に出来る事を考えた末に、この方法を選んだのだ。やり方は千差万別、一人一人に出来る未来を模索すれば良い。

さて、また明日も確かに始まる。
扇谷正造の「君よ 朝の来ない夜はない」を読んだ22歳の春。あれから30年以上が過ぎた。そうだ…朝が来るから、今夜は寝るとするか…。

ちなみに、facebookをされている方はぜひ…
http://www.facebook.com/RememberingSteveJobsJapan
にアクセスして欲しい。
この話は、次回の「明日への一言」で詳しくお話をするとしよう。

2011年10月6日木曜日

アップル スティーブ・ジョブズに捧ぐ

今から30年前か…NECのPC6001パピコンというコンピュータをイトコから貰った私は、それ以来パソコンとの付き合いが続く。当時の記憶媒体はカセットテープだった。NEC6601/8001/8801/9801/EPSON286とマシン遍歴は続き、後半はMS-DOSの世界だった。MSXにも手を出したが…。
私はプログラムやハードには疎いので、それらを使った様々な「夢」を負い続けてきた…。そして今から23〜4年前に「Mac」と出会う。

当時の印象は「何故にこれほど拗ねるのか?」だった。言う事を聞かないヤンチャ坊主…HDは無論ない、怒ると爆弾を出し止まる。具合が悪いと悲しい顔マークが出る。しかし途方も無く可愛くて、このMacと一生歩いて行こうと決めた。そしてそれ迄の大切なデータを積んでいたMS-DOSマシンを全て破棄した。


640KB、フロッピーディスク一台のマシンで、HyperCardやPageMakerやPhotoshopを動かしていた。何しろディスプレイは2階調の白黒のみ、グレースケール表示ができないのにデザインの仕事をしていた。

Macを今迄何台購入しただろうか?中古で売って中古を買った事もある。たぶんトータル30台近くは手にしたはずだ。現在も我事務所には古いマックを入れると9台程ある。実際使用しているのは3〜4台だが…。
昨日のAppleのプレスリリースは意外だった。あの完璧とも言えるプレゼンテーションを目指す企業が、どうにもお粗末なお披露目にしか見えなかった。ストリーミングもなく、画面に繰り広げられるプレゼン画像にも「今ひとつ美しさ」が足りないように感じていた。

そういうことだったのか…世界へ向けてのメッセージの裏で、もっと世界を揺るがす大きな出来事がリアルタイムに進んでいたのだ。私にとってMacは手足のような存在だ。これら無くして今の私は存在しない。この偉大なる未来創造装置は、確かに遠い未来を創造し続けて、驚く程的確にそれを現実化してきたし、今も尚その進化は止まらない。

Appleの創業者の伝記も何度も読み返した。様々な名言も今の自分を形成している。そしてふと気付くのだ。Macは素晴らしいマシンだが、それを創造し続けてきた「ある男」に惚れ続けてきたんだな…と。

「いつまでも一緒にいようね…」と信じていた愛する人を亡くしてしまったような、心にとてつもない穴が空いてしまった。そう遠くない時期に、この別れが来るとは思っていたが、実際その瞬間を迎えると、悲しくて仕方がない。

当然ながら一度も会った事はない。ただいつも手にするMacの裏側に、彼の思想がしっかり存在していて、その安心感の上で私は仕事ができたのだ。

名前は言うまい…彼が地球と言う素晴らしき人間社会に残した更なる未来と夢物語に心から感謝して…「私は…あなたのことが、今でも、これからも大好きです」。深謝!! 本名康友





 

2011年9月22日木曜日

荻野欣士郎監督「福島さん」を拝見してきた…

 週末週明け急ぎの仕事があり、明日への一言、更新が遅れてしまったがお許し願いたい。


 本日、日本を縦断した台風15号。四国・名古屋・首都圏東京を直撃、そのまま北上し福島・宮城と抜け今太平洋上に少しそれたところだ。沢山の悲惨な爪痕を残して、今も尚予断を許さない。台風は皮肉な事に福島原発の真上を通過したと言う。その直後に茨城北・南部を中心とした地震が発生、立て続けの悲惨な現状に被災地の悲しみが積み重なる。今後何事も無ければ良いが…。


 そんな台風の最中、本日私はある自主制作映画を鑑賞してきた。
 原発問題で揺れる福島県を擬人化した異色短編映画、その名も『福島さん』。
 映画は2011年4〜5月、福島県いわき市にてロケを敢行、撮影のカメラ、照明等の電源は、ソーラーバッテリーで充電したという徹底ぶり、脱原発をアピールした意欲作なのだ。 実はこの映画の脚本・監督を手がけたのは、facebookの友達である荻野欣士郎氏。生まれも育ちも東京の新宿区。詳しくは聞かなかったが、ひょっとすると福島とは全く縁のない方なのかもしれない。
 映画監督としての実績も素晴らしい。1シーン1カット99分「浅草堂酔夢譚」はモナコ国際映画祭にてIndependent Spirit Award・主演男優賞・主演女優賞を受賞。ロスのニュービバリーシネマでも上映されたと聞く。そして最新作が本日私が拝見した「福島さん」。
 東京板橋の小ホール・サブテレニアンで行われた上映会。残念ながら台風の真っただ中だけに客足は少なかったが、最前列で拝見させていただいた。

 私の故郷はご存知のように「福島県」だ。父方・郡山市、母方・福島市、言わば現在大問題となっている福島原発のホットスポット。それだけに荻野監督の作品は何としても拝見したかった。

 内容は当然の事ながら、東日本大震災による福島原発災害問題についての提言なのだが、その表現視点がなかなか興味深い。ご覧になっていない方が多数おられるので、詳細・結末は書かないが、「擬人化」という捉え方はストレートな反原発シュプレヒコールよりも、もしかすると「その真意と理解度」がさらに深まるかも知れない。
 さらに現代相関図も加えられ、私たち国民の疑心暗鬼心も盛り込まれている。
 確かに、予算的にも時間的にも制限があったことは否めないが、その中で沢山の仲間達とこの作品をタイムリーに発表した事を何よりも評価したい。

 本日9/21だが、23日迄の間、あと二日間、板橋サブテレニアンにて鑑賞出来るので、お時間のある方はぜひご覧いただきたい。拝観料は800円だが、全額福島県復興のために寄付されると言う。

 映画終了後に荻野監督と固い握手をして写真を一緒に撮らせていただいた。
 東京生まれ育ちの一人の青年が、映画と言う力で「大きな難問」にぶつかって行く。福島県民のみならず、世界規模で沸き上がる脱原発運動の賛同者に大きな力を与えてくれるかもしれない。
 ぜひ、荻野監督「福島さん」を支援・上映して下さる方々を多く募りたい。荻野監督直接でも良いし、私に連絡をして下さってもいい。心からお願いを申し上げたい。







2011年9月16日金曜日

都会の中の「秋深き隣は何をする人ぞ…」。

 松尾芭蕉の晩年、絶唱の最高の秀句とも言われるものだが、晩秋の夜、灯りのこぼれる隣家の住人に想いを馳せる人間的ぬくもりを描いていると言われている。
 都会はとてつもなく広い。そして行き交う人々は全て他人で、地元だから顔見知りには良く会うが、地元を離れるともう全て見知らぬ人々ばかりだ。当然私はこの大都会に住んでいる訳で、我が住むマンションは10階建て。各フロアに3部屋ずつだから、1-2階の店舗を覗いて計算すると、24世帯が住んでいる計算となる。そして残念ながら、大家意外のほとんどの方達とは面識が無いのだ。言わば「隣は何をする人ぞ…」。芭蕉のような情緒豊かな感性では無く、本当に他人の集合体なのだ。


 本日夕方に我が事務所のベルが鳴った。扉についているスコープを覗くと若い女性と小さな女の子が見える。そっと扉を開けると「突然失礼します…。上の階に引っ越してきた者なのですがご挨拶に…」と小さな包みを頂いた。続けて「小さな子供がいますので、うるさいかも知れませんが、何卒お許しください…」と。
 私自身も仕事で昼夜関係無くドタバタしているので「こちらこそご迷惑をおかけするかも…」とお伝えし、笑顔の初対面となった。


 そう言えば最近上階で子供の走り回る音や泣き声が聞こえていたが、私には大して問題ない範囲だし、よく考えれば、私の方こそ朝方迄バタバタと作業をしていて迷惑をかけているかも知れないのだ。何より私自身ここに引っ越してきた時、隣近所に引っ越しの挨拶をないがしろにしてしまった事を急に反省してしまった。


 小さなコミュニティに生活する場合は、マチや村ぐるみのお付き合いがある。しかし都会のど真ん中では、本当に「隣は何をする人ぞ…」なのだ。エレベータ内であっても無言のまま。一度無言で会ってしまうと、次からはなかなか挨拶も出来なくなる。わかってはいるのだが、人間とはかくもモロイ存在なのか?


 いただいた包みは、ディズニーランドのミッキーマウスが描かれた小さなビニール袋。開けてみると、韓国海苔と台所洗剤の小さなボトル。何かとっても温かな気持ちになった。


 自己反省も含めて、これからはもっと大らかに生きて行こうと思う。やはりそれが人間関係を緩やかにしていく方法の一つなのだ。
 最近facebookを活用しているが、友達申請をする際に一方的に一言のメッセージもなく「友達申請」だけが届く。何処の誰だかわからない人と「すぐに友達」になれる訳が無いし、それこそ礼儀が必要なのだ。だから私はそんな申請は一切無視をするのだ。友達になりたいなら「ラヴレター」くらい書いて来い!!と思うのは私だけだろうか?お後が宜しい様で…。



2011年9月15日木曜日

facebookの可能性について…

 昨日から再稼働した「明日への一言」だが、5/30以降、約3ヶ月半近く休んだ計算となる。以前は日々100人以上の方々が我がホームページに足を運んで下さり、二重カウントを回避していたので、現実その数の方々が日々訪れて下さっていた。
 しかし、震災以降復興ネットワーク作りのために再開したfacebook、そしてホームページと連動していたtwitterも加え、3つの文章を書き続けることは現実的に辛いものがあり、自ずとホームページの「明日への一言」を休止せざるを得ない状況となってしまった。
 沢山の方々からホームページの「明日への一言」が止まっていますが病気でもされましたか?楽しみにしているのでぜひ再開して下さい…等のご心配や励ましのメールを多々頂いていたのだ。この場を借りて沢山の読者の皆様に感謝申し上げたい。


 多くの皆様は既にfacebookという存在を一度はお聞きになっているだろう。アメリカの大学から広まった世界最大のSNS。SNSとは、ソーシャル・ネットワーキング・サービスSocial Network Serviceの略と呼ばれ、wikipediaによると人と人とのつながりを促進・サポートする、コミュニティ型の会員制のサービス。
 日本ではmixiやGree等が有名だが、実はそれらの多くは「匿名性」による参加が主だった。実は匿名を義務づけているのでは無く、匿名による参加・書き込みのし易さ等が共感呼び多くの会員数を誇っている。しかし匿名性が持つクローズドな世界、書き込みの責任の所在、非難中傷等も多々見られ、それらに二の足を踏んでいた層が一気にfacebookに流れ込んだのでは無いだろうか?
 facebookの基本は「実名登録」。さらに可能な限り参加する人間の「実在を証明」出来る情報を公開しよう…という前提条件がある。その「実在証明」が第三者に対して安心感をもたらし、それが友達を増やす大きな要因ともなっているのだ。ただし、その個人情報の公開非公開管理はユーザーに委ねられている。


 震災以降、私は近場の友達づくりからスタート。そして様々なネットワーク(友達)検索により、以前からの知り合いを見つけ、さらに優れた価値観で情報公開をしている新しき仲間たちと知り合えた。3月後半から再開して半年で現在私の友達は日本のみならず世界に240人程に広がったのだが、これは私にとって大変に価値あるネットワークとなりつつある。
 「実名」による参加は「言葉に責任」をもたらし、そして同じ実名の方々と正々堂々と議論し合えるし、共感もし合える。そして私の場合は「復興」という未来を共存できる仲間たちと強い絆で結ばれ、そして次なる戦略を生み出して行けるのだ。


 facebookは使い方なのだと感じている。遊びで使うのも良いだろうし、単なる友達づくりでも有効手段だ。しかし私は、それだけではない大きな可能性を秘めていると思う。そこには「問題意識の共感」と「解決方法の宝庫」があるのだ。それに気付くと、このfacebookは一段と輝きを増す。
 ぜひ多くの皆様とfacebookでお会いしたい。そしてその可能性をもっと大きく広げて行ければと切に願う。